【雑記】祖父の死

2月26日に母方の祖父ががんで亡くなり、葬儀に出席するために、約半年ぶりに生まれ故郷である秋田の大館市に帰省した。

滋賀の大津からは、電車と飛行機とバスと乗り継ぎ、片道合計6時間以上の長旅だ。

そして、大館駅に到着。

大館市は秋田県最北端の市で、秋田犬発祥の地。渋谷駅の銅像で有名な、忠犬ハチ公の生まれ故郷でもある(下の写真は2018年の2月に撮影した、大館駅前のハチ公像)

大館駅には従兄弟(母の兄の息子)が迎えにきてくれていた。

いつもならこの時期には全身に雪を被っている大館駅前の秋田犬の銅像が、今年は全く雪を被っていなかった。

従兄弟に聞けば、今年81歳の祖母も経験したことが無いぐらいの雪不足なんだそうだ。

駅から車で20分ぐらい走り、祖父の家に到着。

祖父の遺体は、既に病院から実家に戻されていた。

既に納棺されていた、祖父の遺体との対面。棺の中にはお花と祖父が知らない言葉の意味を書き記した祖父のマイ辞書が納められていた。

祖父の死の実感が湧かない。

以前からがんを患っていたとはいえ、何せ生前に最後に会った半年前は、キッチンの祖父の指定席でご飯をしっかりと食べていたのを見ていたし、その光景が記憶にはっきり残っていたからだ。しかしこの1ヶ月で、胆のうからガンが全身に転移していることがわかった。余命は2ヶ月との宣告。祖父は延命措置を望まなかった。祖父がご飯を食べても体が受け付けてくれず、毎日のように戻してしまっていたと従兄弟から聞いた。元々ガッチリしていた体は、亡くなった後は明らかに小さくなっていた。

地域柄お通夜がなく、2月29日に葬儀という運びになった。

葬儀当日は朝から慌ただしかった。

田舎なので近隣住民の方が、祖父の家に朝早くから、次々と家にお線香をあげにやってきた。家中に祖父を悼む秋田弁が飛び交う。

そしてお昼。家に安置されていた棺を出棺し、火葬場へ。

火葬場で祖父の遺体との最後の別れ。火葬後は骨になってしまう。祖父のもう2度と目を開かないその顔を最後の瞬間、色んな思い出が一瞬で走馬灯のように脳裏に流れた。気がついたら嗚咽をあげて涙が止まらなくなった。

祖父は不器用で口数も少なかったが、祖母と一緒にとにかく朝から晩まで、一生懸命に愚痴も言わずにずっと農作業をしている人だった。田舎に遊びに行く度にそんな姿を見ていた。

ほぼ毎朝のように、3時や4時から農作業をしていた。

祖父は数十年前に、当時としてはかなり先行して農機を導入したそうだ。それでもその農作業量と言ったら、私からしたら想像を絶するものがあったと思う。

今は叔父がその農地を引き継いで農業をやっている。その地盤を作ってくれたのは間違いなく祖父(と祖母)だ。

今でも祖父の家に行くと、祖父母が礎を築いてくれた美味しいあきたこまちやきりたんぽを始めとした郷土料理を、祖父母や叔父、叔母、従兄弟、従兄弟の奥さんやその子供達と皆で話しながらありつける事は、自分の人生にとってかけがえのない幸せの1つだ。

そんな祖父の晩年。甲状腺の癌を患い、声帯を取って農業を引退した。引退してからというもの、私が田舎に帰る度に、自分ががんと闘っているのに、そんな様子はおくびにも出さずに、いつも私の健康を気にかけてくれていた。

私が田舎に行くと、いつも寝床は祖父の部屋だった。部屋では祖父の大好きなメジャーリーグを一緒によく観ていた。埼玉や滋賀へ帰る時、祖父は年齢を追うごとにどこか悲しそうな顔をしていた。その姿は、祖父が亡くなった今でも目に焼き付いている。

半年前に思い立って祖父母らに元気な姿を見せようと田舎に帰り、別れ際に祖父母と写真を撮った。今思えば、あのタイミングで帰っておいて本当に良かった。

私は今まで、孫として大館に行って元気な姿を見せることぐらいしか祖父孝行できなかった。けれども、祖父がなによりも1番大事にしていた祖父の家族とこれからも仲良くして、様々な事で恩返ししていく事が、祖父が亡くなった後も自分ができる、1番の祖父孝行だと思っている。

人は必ず死を迎える。私もいつか死ぬ。

それまではじいちゃんのように、一生懸命に生き抜きます。どうか空の上で見守っていてください。

本当にありがとう。